シャンタラム/グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ(新潮文庫)

明の時代に書かれ、今も読み継がれる大長編小説の名作四編(「水滸伝」、「三国志演義」、「西遊記」、「金瓶梅」)を称えて、中国四大奇書などという。それらに共通する大きなスケールや無類の面白さ、さらにはいくら読んでも尽きることのない長大さという要件までも併せ持ったグレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの『シャンタラム(上・中・下)』(新潮文庫)は、さしずめ二十一世紀の奇書だろうか。
文庫本にして三巻をざっと足すと、総ページ数は軽く一八○○ページを越えるというボリューム。翻訳はミステリ・ファンには既におなじみ田口俊樹さん、とくれば本好きの読者にとってこれ以上は望むべくもない。
その『シャンタラム』は、こんなお話だ。ひとりのオーストラリア人の男が、インドのボンベイ(現在のムンバイ)にたどり着くところから物語は始まる。このリンジーという偽名を使う私こと主人公は、武装強盗の罪で母国の重警備刑務所に服役していたが、二年前に仲間とともに白昼堂々の脱獄を成功させ、首尾よく海を渡ってインドに不法入国を果たした。しばらくはこの国に潜伏して、ほとぼりが冷めるのを待とうというのが彼の目論見だった。
ところがその矢先、たまたま出会ったガイド兼タクシー運転手の好青年プラバカルが、主人公の人生を変えるきっかけとなる。青年と行動をともにするや、市井の人々の考え方や生活の習慣のひとつひとつが、新鮮な驚きをもって目に飛び込んでくるようになったのだ。それとともに、彼の内側でインドという国への誤った先入観は、みるみる払拭されていく。
しばらくして、盗難の被害にあった主人公は、親しくなった仲間たちにしばしの別れを告げスラムで暮らし始めるが、上等とはいえない引越し先で思いがけなく彼を待ち構えていたのは、医者という天職だった。医師の資格はないが、応急処置の経験をいかし、そこで暮らす人々のケガや病気を治す仕事に精を出す彼を、スラムの人々は心から慕い、敬った。しかし、好事魔多し。疫病からスラムを救う大活躍を演じながら、彼をよく思わない者の陰謀によって、ふたたび主人公は囚われの身となってしまう。
タイトルは、やがて主人公が戴くことになるインド名(シャンタラムは、神の平和を愛する人の意)からとられている。本作の成立までには十三年という長い歳月が流れたというが、主人公と同様に、作者のグレゴリー・デイヴィッド・ロバーツにも獄中の経験があるらしく、塀の内側でしたためた草稿が破棄の憂き目にあうという不幸な過去もあったようだ。
そのあたりからも、この『シャンタラム』には作者の自伝的要素が強く投影されていることが窺える。多種多様な文化の坩堝といわれるインドの社会に対し、主人公が感じる目から鱗の驚きや感動も、そもそもは作者自身のものであったに違いない。
ところで、この『シャンタラム』の面白さは、シェヘラザードがペルシアの王シャフリヤールに命懸けで語って聞かせたという『千夜一夜物語』に喩えられてもいるようだが、それもむべなるかな。主人公のリン・シャンタラムをめぐって、まるで数珠繋ぎのように連ねられていくエピソードときたら、読み手を一刻たりとも飽かさないものばかり。テレビや映画で感動の実話が目にとまるたび、ドラマチックな人生など世の中には掃いて捨てるほどあるのだなぁ、と感心するが、主人公がたどる運命ほどの波乱万丈には、ついぞお目にかかったことがない。
自伝の要素を骨格としながらも、それに肉づけをしていく作者の饒舌なストーリーテリングは、まさに神がかり的としかいいようがないが、それにはほとんど例外なく運命的な出会いが絡んでくる。先の好青年プラバカルをはじめとして、エメラルドの瞳を持つ美女カーラ、ボンベイ・マフィアの黒幕カーデル、その右腕でどこか得体の知れないアブドゥル、外国人コールガールの元締めマダム・チョウなどなど多士済々。主人公の人生に大きな変転をもたらしていくカリスマたちの、なんとも魅力的なことよ。
大河のように流れていく物語はやがて後半にさしかかるが、裏社会のダークサイドに落ちたり、ソ連占領下のアフガニスタンへ向ったりと、主人公の劇的な人生はさらに加速していく。その複雑で捉えどころのない物語に戸惑う読者もありそうだが、心配は無用である。クライマックスにかけて、物語はきちんと書かれたミステリ小説のように鮮やかな収束を見せる。そのあたりの計算された面白さも、注目いただきたいポイントだ。
このように恋あり、冒険あり、人情あり、成長ありのエンタテインメントでありながら、ときに哲学や宗教の世界へも越境するこの『シャンタラム』は、気宇壮大という言葉がぴったりくる。しかし、何も構える必要はない。むしろ脱獄囚でお尋ねものを主人公にした悪漢小説(ルビ:ピカレスクロマン)として気楽にページをめくった方が、この物語の深遠なる部分に到達できるような気がする。どうか肩の力を抜いて、この類稀なる大河小説を楽しんでいただきたいと思う。
主人公リン・シャンタラムのたどる波乱の半生と、それにまつわる空前絶後の物語。二十一世紀の奇書『シャンタラム』は、必ずやあなたを虜にするだろう。
[波2011年12月号]

シャンタラム(上) (新潮文庫)

シャンタラム(上) (新潮文庫)

シャンタラム(中) (新潮文庫)

シャンタラム(中) (新潮文庫)

シャンタラム(下) (新潮文庫)

シャンタラム(下) (新潮文庫)