死神を葬れ/ジョシュ・バゼル(新潮文庫)

フランクフルトで毎年開催される秋のブックフェア(書籍見本市)は、各国の出版事業者が集い、新作や話題作の出版権をめぐって争奪戦を繰り広げる場として世界最大規模のものだが、二年前そこで話題を独占したのが、この無名の新人作家による『死神を葬れ』(新潮文庫)という作品だった。今年一月にアメリカで刊行されるや、たちまちのうちにベストセラーを記録。三十一カ国での出版が決まり、さらには20世紀フォックスがディカプリオ主演で映画化を準備中というニュースも飛び込んできたばかりのホットな話題作の登場である。
マンハッタンにあるカトリック病院に勤務する研修医のピーター・ブラウンは、ある冬の朝、病棟を回診中に、とんでもない疫病神と再会する。末期癌で入院してきたその男スキランテは昔の仲間であり、忌まわしい記憶を呼び起こす人物だった。実はピーターにはわけありの過去があった。かつて彼はマフィア御用達の殺し屋だったのだ。しかし、七年前に足を洗い、証人保護プログラムによって新たな人生を歩き始めた。
その彼が選んだのは、医学の道だった。しかし、この朝の予期せぬ過去との遭遇は、彼の新しいキャリアを台なしにしかねない事件だった。邪魔者を始末してしまおうかという邪まな考えがピーターの頭をよぎるが、敵もさるもので、自分の命の保険とばかりに、もしも俺が死んだら、おまえの居所をマフィアのボスに知らせる、と脅しをかけてくる。カルテを調べると、スキランテは余命いくばくもない上に、手術の担当医はとんでもない藪医者だった。マフィアのさしむける殺し屋に命を狙われるのは必至という絶体絶命のピンチを、果たして主人公はどう切り抜けていくのか?
作者のジョシュ・バゼルは、脚本家や検死局勤務などの前歴を経て、今はカリフォルニア大学で研修医として勤務し、医師と作家という二足の草鞋を履きこなしている。それゆえだろう、舞台となっている総合病院の医療の現場には、目を瞠る臨場感がある。人材の不足や医療過誤訴訟の弊害など、人間の命を扱う聖域にしては、そのあまりにお粗末な現状は、読者の心胆を寒からしめるものがあるといっていいだろう。
しかし、この作家の非凡なところは、医療機関の危機的な状況に警鐘を鳴らしながらも、よくある社会派のメディカルものに終わっていないところだ。自分の命も風前の灯という深刻な事態に追い込まれても、主人公のフットワークはあくまで軽快で、飄々とした軽口が口をついて出てくる。ポケベルの呼び出し音に追いたてられながらも、院内を自在に駆け巡り、もって生まれた医師としての才能を存分に発揮しつつ、さまざまな症状で苦しむ老若男女に、次々救いの手を差し伸べていくのだ。その挿話の数々には、医学小説の面白さがあり、サイドストーリーとして見事に充実している。
一方、メインのピーター自身の物語はふたつの時間軸を行き来しながら語られていくが、ユダヤ系移民として祖父母に育てられた少年が、やがて殺し屋としての才能を見出されていく過去からの物語と、生き残りをかけて孤軍奮闘を強いられる現在の物語は、終盤に向けて張りつめた緊張感とともに、互いに急接近していく。読み始めたらどうにも止まらない面白さは、まさにページターナー。悪漢小説と医学小説の美味しいところをマッチングさせたスリルとユーモアたっぷりの極上エンタテインメントである。
[波2009年8月号]

死神を葬れ (新潮文庫)

死神を葬れ (新潮文庫)