ロング・グッドバイ/レイモンド・チャンドラー(早川書房)

発売日まで部外者は誰もその原稿に近づけないという厳戒態勢が敷かれた(?)と伝えられる村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー。噂が噂を読んだフィリップ・マーロウが自分をどう呼ぶかという所謂一人称問題は、それぞれ読者で確認をしていただくとして、ミステリ・ファンの興味は、ほぼ半世紀ぶりの今回の改訳で、一人称以外にもどんなリニューアルがなされたか、ということだろう。
私立探偵のマーロウは、ある晩、酔いつぶれた男をレストランの駐車場で見かけた。ロールスロイスからはみ出しそうになっていた男を自宅で介抱し、送り届けた。その晩の出来事をきっかけとして、彼テリー・レノックスとマーロウの交友は深まっていった。しかし、テリーは殺人事件の容疑者として指名手配の身となってしまう。殺されたのは、金持ちだが身持ちの悪い彼の妻シルヴィアだった。テリーは行方不明となるが、やがてメキシコの田舎町で自殺したとの知らせがマーロウのもとに届けられる。
商業的な理由はさておき、村上春樹がすでに定評のある旧訳(清水俊二訳)を改める理由は、都市小説という視点からチャンドラーの小説に文学的な評価を与えようという試みに他ならない。その結果として翻訳に精緻さが加わったことは、間違いないところだろう。旧訳の「長いお別れ」のファンの中には、翻訳に漂うロマンチシズムとセンチメンタリズムを愛好する向きが多かったことから、今回の新訳は賛否両論に分かれるかもしれない。しかし、個人的には村上チャンドラーを大いに歓迎したい。
というのも、今回の改訳によって、この作品はヒーローとしての私立探偵が活躍する物語というハードボイルド小説の魅力に加えて、謎解きのミステリとしての骨格(すなわち面白み)がよりシャープに浮かび上がるようになったように思えるからだ。複雑な人物関係を背景に、主人公に(そして読者に)仕掛けられる罠は、今回のクールかつ正確な訳文によって、より周到なものとして機能するようになった*1のではないか。改訳なった『ロング・グッドバイ』、お奨めである。
本の雑誌2007年5月号]

*1:チャンドラー本人が聞けば、鼻先で笑うかもしれないが。